呉一補水 13554番 平井龍一 命

MickieG2007-08-24

階級:海軍二等兵
所属部隊:記載なし
死没年月日:昭和20年8月28日(戦死)
死没場所:フィリピン群島

2002年3月以来、ご遺族を探していた平井龍一命が、やっと帰ってきた。
何と、5年5ヶ月の歳月がかかってしまった。
本来であれば、3月に調査を開始して、わずか3日のスピード解決でご遺族が判明し、一生を独身で通された許婚の方にこのご遺品をお届けすることができたはずだったのに。

運命のいたずらと言って片付けてしまうにはあまりにも残念な行き違いだった。

このご遺品返還の調査は、バンカーヒル号体当たりに成功した小川清少尉の遺品返還の新聞記事を読んだカリフォルニア州アメリカ人女性の方(Carol Galant-Youngsさん)から依頼されたものである。彼女はその初恋の人をベトナム戦争で失っており、戦争の悲惨さを体験した一人でもある。

平井龍一命の遺族探しの手がかりは非常に限られていた。
寄せ書きのない日章旗は、下賜された時の名札が縫い付けてあるのみである。
呉軍需部が交付した時の入籍番号(兵籍番号)は、兵籍原簿の損失により、配属部隊も詳細は不明のままである。(一部の調査によると、コレヒドールに派遣された震洋隊ではないかという説もあるが。)

唯一の手がかりは、靖国神社の祭神記録のみであった。
そこから本籍地を把握し、遺族を追跡するという、いつもの手法が今回も功を奏した。

惜しむらくは、調査に協力をしてくれた名古屋市中区役所の結果報告である。
2月26日に中区へ、2月28日には東区へ調査を依頼したのに対し、3月4日には東区から調査中の回答があった。そして3月5日には中区役所は回答を出しているのである。それが何の因果か、電子メールで送ったという回答は私の元へは届かなかったのである。

当時、私が使っていたmsn.com(マイクロソフトネットワーク)はメールシステムが不安定な日が続いていた時で、私からの調査依頼書にはメールがつながらないことがあるので気をつけて欲しい旨の記載もある。

3月4日の調査中の回答以来、なんら音沙汰がなかったため、名古屋市役所は当てにせず、他のルートで調査を続けていた私だった。なぜあの時、東区役所や中区役所へ、再度問い合わせをしなかったのだろう。なぜ、電話をして進捗状況を確認しなかったのだろう。本当に今となっては悔やまれるばかりである。

遺品を受け取ってくださるご遺族は、龍一命の義理の妹(5人兄弟末弟の嫁)に当たる。彼女は龍一命のことは何も知らない。けれども龍一命には、許婚がいたのである。しかもその許婚の方は、一生を独身で過ごし、2002年3月の時点では高齢ではあったがまだ生存していた。そして遺品返還の知らせを聞き、遺品を帰ってくるのを心待ちにしていたそうである。

本当に申し訳ないことをしてしまった。
あの時、すぐに、名古屋市役所に催促していれば、既に回答を返して頂いてことが判明しただろうに。
そうしたら、許婚の方にご遺品をお渡しすることができたのに。
このご遺品の返還を一番喜んでくださったのは、きっとこの許婚の方であっただろう。

何度振り返っても、悔やまれてならない。

8月24日は私の父の誕生日である。父は昨年6月に80歳の誕生日に2ヶ月足らずに他界した。たまたま名古屋大学の学会に参加していたこともあり、5年ぶりに名古屋市役所に連絡を取って、初めて今回の経緯が判明した。平井龍一命の命日とされている8月28日にはご遺族の方との連絡もついた。

今秋のお彼岸までには、この日章旗は祖国へ帰ってくる。
戦後60年もの間、ずっと待っていた人とは既に天国で再会を喜んでいるであろうと思いたい。
終戦直後に戦死されたということになっている。ご本人は生きて復員できずにさぞかし残念だったことであろう。
でもやっと帰ってくる。自分の故郷へ。手厚く供養してくれる遺族の元へ。

平井龍一さん、長い間ご苦労様でした。お帰りなさい。